試験放棄 

本当なら試験受けてる時間です。
またぶっちぎってしまいました。
前回は家のゴタゴタでしかたなくでしたが、
今回は自分がいっぱいいっぱいでした。
この暑さのせいなのか、
気力がとうとう枯渇しました。
気力だけでここまで持っていたので現状、
腑抜け状態です。


お休みが欲しい。
たまには家でのんびりしたいし、
そのなかで子供とも遊びたいなぁ、って。
彼女にも毎回「今日は何時間ね」って
締め切り時間を決めてるから、
本気で楽しめないかもしれないしね。
僕は常にその後の仕事のこと考えないといけないし。


今日、一つの団体は脱退することも決めました。
本心では、そこに居たいのに、
目一杯では、みんなに迷惑をかけるから。
仕方のないことです。


事務所がかたづきません。
むしろこのお盆の仕事で、ごった返してます。
いつまで経っても、進歩がないのです。
そして残念なことに進歩がないことが、
いけないことを僕は充分知っているのです。
気がつかなければ幸せなのに。


脱退した団体では、
「星野さん自分でかかえてしまうから」と言われ、
「でも、その方が進めやすいようだから」
「どう手伝っていいのか、わからなくて」
等々、痛いところを突かれました。


僕が仕事を抱えてしまうのは事実。
把握してないことが「怖い」という恐怖感と、
それでなくては責任を取れない、と思いから、
人間が小さいから、人の問題点を
すんなり自分で責任取る、と言えないのです。
だから、予防のために抱えてしまう。


進めやすいのも事実。
感覚的なことを伝えることが難しいのです。
データなら、仕事上どうでも伝える自信あります。
でも感覚とか、微妙か感情は
表す言葉がないので、表現が抽象化してしまい、
結果全然違うとらえ方から、違うものが出来る。
妥協すればいいのでしょうが、
それが出来ないのです。
だから、そこでストレスを感じるなら、
自分で進める方が簡単で早いのです。


そしてそれ故に、手伝えない状態が出てしまうのです。
それではまるで人を信用してないように取られるのでは、
と言う思いは実はずーと前からあります。
言われたこと、ありますから。
でも僕は逆だと思ってるのです。
「信じている」だから、その人には僕と同じように、
自由な発想から自由に計画を立ててみてほしいのです。
それでいて、その人が生きるのだと思ってます。
下世話な言い方をすれば、それが『個性』です。


知的障害施設職員をしていたからでしょうか、
彼ら、彼女らは「そのまま個性」だったのです。
僕は僕らしくしか生きられないから、
誰かは誰からしく生きてくれれば、本望です。
ただいろいろな組織はあるので、あとは社会性が
その場でどう発揮されるのかだけ。


僕はどーもアーティスティックに傾くようです。
納得しないと、何もしないとか、投げ出すとか。
ただ投げ出すのは僕にとっては「全部任せた」なのです。
全肯定的な。
相方は「どうでもいいよ、好きにして」というと、
なぜか「どうしてそんな言い方しかできないの?」
なんて言いますが、読んで字の如く、
任せて文句を言われるなんて、こっちこそ、
「なんで、そんな風に言われなくちゃいけないの?」なのです。


あー、文章が長い。
疲れてる証拠です、僕の悪い癖。
気づいたここで、おしまいです。